地方競馬関係者インタビュー/ 競馬実況アナウンサー 及川サトルさん
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競馬実況アナウンサー/ 及川サトルさん
(1959年生まれ・岩手県出身)
大学卒業後、園田・姫路競馬場で競馬実況アナウンサーとなる。その後、笠松・名古屋競馬場へ移り、平成元年より南関東で活動。
名フレーズとして、「と〜きょ〜の真夏の夜にブリザ〜〜〜ド!!圧勝〜〜!!」や「緑の2頭、岩手の2頭で、もうど〜しよ〜もない!」など。
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競馬実況アナウンサーになったきっかけ
学生の頃は、競馬に興味も関心もなく、実況もやりたいと思っていませんでした。当時は、俳優や役者、あるいは漫才師や落語家などに憧れていましたが、 親に反対されるという思いもあり、放送局のアナウンサーを目指すことにしましたが、採用までたどり着くことができませんでした。
そんな折、大学の就職掲示板を見ていたところ、業種が広告代理業で、職種がスポーツ実況アナウンサーという会社を見つけ受験、合格し、入社することとなりました。 なお、その会社でのスポーツ実況アナウンサーというのは、 野球やサッカーなどのスポーツではなく、ギャンブルのスポーツ実況で、社員が地方競馬場、競輪場、競艇場に出向し実況をおこなっていました。
私は、最初に園田・姫路競馬場の実況担当に配属となり、吉田勝彦さんの元で実況を覚えました。 初めて、吉田勝彦さんの実況を聞いたとき、同じような実況をするのは無理だと思いましたし、最初は競馬に興味もなかったことから嫌々やっていましたが、 入社して3、4か月経った頃に、ある方に、とても下手だと言われたことがきっかけで、負けん気に火がついて、本腰を入れて実況を覚えることを決意しました。
真剣に取り組むようになって、どんどん周りの評価も良いほうに変わってきて、それにつれて競馬実況をすることも競馬も楽しいと思うようになってきました。
ちなみに、馬券も買うようになりましたが、馬券の才能はないです(笑)
実況の仕事の大変なこと
園田・姫路競馬場で競馬実況アナウンサーをした後、会社側から、笠松・名古屋で実況をやって欲しいと言われ、一度断わりましたが、やはり行くことを決意しました。 当時、一宮に住みながら、笠松・名古屋競馬場での実況を10か月間ほど行っていましたが、東京で仕事がしたいと思い始め、平成元年から東京の会社に移りました。
東京に来た当初、私の実況のインパクトが強すぎたために、競馬場の主催者などから実況の仕方について指摘されたりもしました。そのため、相手の要望を受け入れつつ、 自分の実況スタイルも残しつつ実況することには苦労しました。
実況という仕事のやりがい
お客さんの反応がすぐに来るというところに、やりがいを感じます。レースの中に実況があって、お客さんがそれを楽しんでくれるのが楽しいですね。