厩舎で過ごし始めて、1週間ほど経ち、いつものように朝の厩舎作業を終えて昼寝をしていたところ、携帯電話の着信音で栞は目覚めた。おもむろに電話に手を伸ばし、 液晶モニターを見ると母親の美恵子からだった。
「栞、元気?」電話に出ると、心配そうに美恵子が言った。
「元気だよ!想像以上に、厩舎での生活楽しいし、馬も可愛いし、走ってる姿はかっこいいし!お母さんこそ、お父さんとのことで疲れとか溜まってない?」栞は、母を気遣った。
「お母さんは、大丈夫よ。それより、栞が元気で良かった。厩舎の生活にも馴染んでるみたいね。後3週間、楽しんで過ごしてね。あ、暑いだろうから、 夏バテしないように気を付けてね。」栞の明るい声に、美恵子も明るく言う。
「わかった!お母さんもあまり無理しないでね。」
母親との電話を切ると、ふいに東京での生活が恋しくなった。
恵理、部活毎日行ってるかな・・・すぐ、サボる癖あるからなぁ・・・
大祐は、花火大会で美緒に告白するって言ってたけど、うまくいくといいなぁ・・・美緒は自分の恋愛の話一切しないから大祐のことどう思ってるかは、 わからないけど、お互い温厚だしいいカップルになると思うんだけどな・・・
修二も・・・
「栞ちゃん―!!」突然、窓の外から栞を呼ぶ大きな声に、栞は意識を現実に引き戻した。急いで窓を開けて、外を見ると、 黒いタンクトップに白いシャツを羽織り、デニム生地のハーフパンツを履いた優一が、手を振っている。
「あ、優一さん!どうしたんですか?」栞は、窓の外の優一に向かって言った。
「これから、将太と桂浜公園に泳ぎに行くんやけど、栞ちゃんも行かん?高知来てから観光しとらんやろ?」優一は爽やかな笑顔で言う。 「うん!私も行きたい!すぐ準備します!」栞は、急いでホルダーネックの白いワンピースを着ると、大きめの籠バッグにタオル、日焼け止めなどを入れて外に出た。
優一を探すと、馬房でリクオウの鼻づらを撫でていた。
「お待たせしました、優一さん。」
「今日も可愛いねー!白いワンピース似合っとるやん!」優一は振り向くと、満面の笑みで言った。
「いつも褒めていただき、ありがとうございますっ。」栞も笑顔で応じる。
「じゃあ、お嬢様行きましょか。じゃあな、リクオウ!4日後のレース楽しみにしとるで!」優一は、リクオウに手を振ると、厩舎の脇道に向かって歩き出した。栞も後を続く。
「優一さん、リクオウって4日後、レース走るんですか?」栞は、優一がリクオウに言った言葉を思い出し尋ねた。
「そうやで。前走は、鼻差で2着に負けてもうたけど、次は絶対勝てる!」優一は力強く答えた。
「じゃあ、私リクオウの勝利を見ることができるんですね!」栞は目を輝かせた。
「期待裏切らんよう、頑張るわ!あ、将太!」駐車場に着いたところで、黒いTシャツにデニムを履いた将太がバイクに跨って待っていた。
「あ、栞ちゃん、将太のバイクの後ろに乗ってな!俺が本当は栞ちゃんと2ケツしたかったんけど、スクーターしか持っとらんのや。」優一は大げさに肩を落として言った。
「わかりました。将太さんよろしくお願いしますっ。」栞は、将太が差し出したヘルメットを受け取るとそれを被り、バイクの後部席に跨った。
初めてのバイクにどこを掴めばいいかわからないでいると、「しっかり腰に手回しとけよ。」と将太が言った。
「う・・・うん。」栞は俯きながら答えると、ゆっくりと将太の腰に手を回した。
風を切って走るバイクは、茹だるような暑さの真夏の昼下がりには気持ちよく感じられた。
バイクで20分程走ると海が見えてきた。太陽の光に照らされて、 キラキラと光っている。夏休み中だからであろうか、子ども連れの親子がちらほらいたが、平日とあって、そう人は多くなかった。
将太と優一は、公園の駐輪場にバイクを停めると、海に向かって走り出した。栞も遅れまいとそれに続く。
3人は靴を脱ぐと、砂浜に置き、海へと再び走った。 海に足を入れると、ひんやりとした感触が足を伝わる。
「冷たくて気持ちいい!」栞は、ワンピースの裾が濡れないように持って、膝あたりまで海に入った。
「暑い時の海は鉄板やん!」同じく膝あたりまで海に浸かった優一は、気持ち良さそうに目を細めて言う。
「ほんま、海はええなぁ」将太は手も海の中に入れながら、言った。
「そういや、桂浜公園は、月の名所としても有名なんやで」海の家で夕飯を食べていた時、優一が思い出したように言った。
「そうなんだぁ。綺麗な月みたいなぁ。」栞が言う。
「そいじゃ、日落ちるまで待って、月みよか。」と将太が提案し、優一と栞は大きく頷いた。
人のいなくなった静かな海が月の光に照らされ、波の音だけが響き幻想的な光景が広がっていた。
「うわぁ。本当にきれい。」岸壁に腰を下ろし、月を見上げて栞は静かに言った。 隣に座っている将太と優一も同じように月を見上げている。
「次は、絶対リクオウを勝たせたいなぁ・・・後1個勝てば、オープン行けるんや。馬主の佐久間さんもいい人やし、佃さんも毎日頑張っとるし、 須藤のテキにもお世話になってるけん、なんとかオープンまで行かせてやりたいんや。」月を見たまま、呟くように優一が言った。
「優一なら大丈夫やて。こないだも鼻差の2着やったやん。しかし、最初来たときから随分成長したよなぁ、リクオウ。最初馴致もしとらんで、 鞍つけようとしたら暴れるし、人乗ろうとしたら振り落とすしで、酷かったやん。」将太は、岸壁に横になりながら言った。
「馴致?」栞は二人の顔を見て尋ねる。
「競争馬は厩舎入る前に、馴致言うて、育成牧場で、鞍付けて人乗せれるようにする訓練するんや。後、ちゃんとゲート出れるようゲート練習とかな。 そやけど、たまに馴致しとらんのに、馴致したっていう牧場とかあってな。リクオウも最初来たとき、牧場からの申し送り書には馴致ほぼ完了したって書いてたんに、 実際来たら、何もしとらん状態で。そっから、佃さん、須藤のテキ、優一始め、色んな人の力で競走馬としてデビューできるようになったんよ。そんなんやから、 デビューできただけで満足しとって、まさか後1個勝てばオープンクラスいけるとこまで来るなんて誰も思っとらんかったけどね。」と言って、将太が笑った。
「そやね。本当ここまで来れたんは、色んな人の協力あったからやね。馬一頭レースで走らすんは、それまでにたくさんの苦労があるから、乗り役としては、 なんとか勝たせてやりたいんよね。」優一は、まだ月を眺めていた。
「佃さんからも馬のこととか教えてもらったけど、本当競馬の世界は難しいし、奥深いんだね。4日後のレースでリクオウ勝ってくれると祈ってる!」 栞は優一と将太を交互に見ると、祈りを込めて言った。
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